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法門無尽 福井孝典ホームページ

1月前半

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│ FORUM2-7 第68号 1月8日(水) │
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 さあ、年号も1997と変わり、新しい年が開始しました。皆様方には今年をどんな年にしようとお考えでしょうか。
新しい年と言っても今日は昨日の続き、明日は今日の続きで別に目新しいこともなく続いているだけだと言えないこともありません。健康な身体と安らかな気持ちを持って一日一日を暮らして行ければ、もうそれだけで良いとも言えます。しかしお正月も過ぎ、新しい年の仕事が始まると、矢張り何か新しい気分も沸いてきます。今年も皆様方とご一緒に、一歩一歩地に足をつけながら前を向いて歩いていきたいものだと思っております。
 特に今年は生徒達にとってはいよいよ最終学年になる年でもあり、今学期の成績は高校入試の内申にも記載されます。そういう意味でも油断の出来ない年です。気を引き締めて頑張って貰いたいものです。
青年時代、毎年年の暮れを私はその年を総括する文章を長々と書いて過ごしていました。その年の自分の行ないを振り返って、翌年にすべきことを探ったのでした。実際、学生時代は日一日進歩と変化の連続で、自分で自分を把握し続けることは必要な作業だったのでした。しかも世界は東西対立という構造の中で日本が未だ高度成長を続けているという時代で、分かりやすくもあり、多様なエネルギーに満ち、変化に富んだ時代でもありました。結婚前、年の暮れに現在の妻と電話で「今何してる?」という会話をすると、妻の答えは決まって「大掃除」、私は「作文」でした。
教職についてからいつの間にかその習慣は無くなりました。きっと自分が社会の一部分に位置付いたことによって、改めて自分というものを振り返ってみる必要性が無くなったのです。教師として夫として父として…等々の役割が固定化し、自分のやるべき事が極めて具体的だったという事でもありました。
しかしここ数年、特に海外勤務を挟んで、自分をもう一度見直さなければという欲求が強く起きていました。その時期がちょうど世界の大変動の時と重なっていたことも原因しています。サウジアラビアという全く辺境の地で日本を静かに見つめられたということもあります。しかし今、「もう一度見直し」という作業は日本全体で行われ出しているような気もします。日本自身が何か大きな変革の時代に突入しているという感じがします。私の学生時代とはまた別の、人類として迎えている世界の変化の局面に向き合っているような気もします。
そういう気分の中で私は昨年このFORUMを書き始めました。同じ年代の皆様方と何でも話せたらという思いで、そういうタイトルにしました。勿論、日々の教育活動を進めるにあたって教員と父母が出来るだけ共通理解を多く持っていることが大切だという気持ちが、これを始めた直接の動機ではあります。今の所、私の一方的なお喋りに終始しています。色々な人が色々な立場からそれぞれの貴重なご意見や体験を語っていただければなあとは思っています。
 しかし自分の思っていることを書かせていただいている事に対して私自身は大変感謝しています。いつか書きましたが、私にとってこれを書くのは「生き方の探求」でもあります。自分のやっている一つ一つのことを確かめながら、やるべきことを探るという作業の一つです。ヒトは何か生きる指針を持たなければ満足して生きられないものなのかもしれません。同じ世代の者がこんなことを考えこんな風に生きているということで、皆様方の何かの参考にしていただければ幸いであります。
なんであれ、本年も昨年同様よろしくお願いいたします。

     巌奔り水は老いざる去年今年    千代田葛彦

冬休みに入った第一日目、私は久しぶりに横須賀市の図書館に行きました。
最近はコンピューターが検索や貸出や保安等に活躍し、館内の雰囲気もモダンになっています。私の学生時代もそうであったように学習室は若者達がいっぱいになって勉強をしています。当たり前ですが、開架式の書棚には本がぎっしり詰まっています。閲覧席では老若男女様々な人達が静かに読書をしていました。私はこの雰囲気が好きです。興味ある本はかたっぱしから読んでしまいたいという欲求にかられます。こういう設備があることは老後の楽しみにも明るい材料です。
とか言いながらも、結局最近のベストセラーの本を借りてきました。総括の作文を書く代わりに冬休みにそれらを読みました。これから幾つかその紹介に当てる号を出したいと思っております。


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 │ FORUM2-7 第69号 1月9日(木) │
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 12月26日、「餅をついて雑煮を食べる懇親会」を行いました。
 冬休み中ということにもかかわらず、8名のお母さん方と27名の生徒達の参加があり、年末のひとときを有意義に過ごすことが出来ました。地域で餅つきを行っている所もあるようで最初から随分要領の判っている生徒もいましたが、全く初めてという子供達も多く、冬の日だまりののんびりした空気の中で、どんなものかという好奇心のこもった眼差しがありました。
 ブリキ缶のかまどで薪を焚く以外に、調理室のコンロも使えましたので、作業を効率的に進めることが出来ました。使った餅米は6キロでした。なかなか作りごたえがありました。結局、女子を含め全員の生徒が餅をつきました。最初は慣れなくて臼をつくこともありましたが、やっているうちに皆うまくなりました。剣道部の生徒も日頃の練習のせいかなかなか上手でした。しかし一番うまくつけたのは絶対に渡瀬さんのお母さんだったと思います。
出来た餅はあんころ餅、海苔餅、きな粉餅、それにお雑煮にして食べました。お雑煮は私の家のものと似た作り方で、これが関東地方では一番普通の作り方のようです。当日職員室にいた先生方の所へも持って行きましたが、好評でした。
最初から最後まで皆さん大変手際が良く、予定どおり1時に終わることが出来ました。前日から買い出しや、お米の下準備をしてくれた委員さんをはじめとして、皆さん本当にありがとうございました。

 今年もお正月には皆さんお餅を召し上がったことかと思いますが、今は既に七日の「七草」も過ぎ、十一日の「鏡びらき」を迎えようとしています。
 七草(七種)については「せりなづな御形はこべら仏の座すずなすずしろこれや七種」と言われますが、順に芹、ぺんぺん草(なずな)、母子草(御形)、はこべ(はこべら)、たびらこ(仏の座)、かぶ(すずな)、大根(すずしろ)を指すようです。土屋先生の御実家では、これらを摘んでマーケットに出荷するとのことです。そのことを「若菜摘」と言います。粥を作る時、昔はまな板の上でわざとトントン大きな音を立てゝ叩き、唱え言をしながら行ったということで、これを「七草たたき」「若菜打ち」と言うそうです。叩くことによって成分がたくさん出て、美味しくもなり薬効も増すのでしょう。お正月に酒を飲み過ぎたりご馳走をたくさん食べた後の「七草粥」なんて、昔の人は色々うまいことを考えるものだと思います。
 最近西洋でもベジタリアンという人が増えているようですが(前の前のAETのマリッサもそうでした――それでキャンプや宴会等の時は苦労しました)、東洋には漢方を初めとして植物を薬や食材として使う知識が豊富にあります。自分の生活から来る直感としても、植物には様々な栄養素やビタミンや力が含まれているということが判ります。野山の野草から目ざとくそういう草や茸を見つけだして、うまく料理出来るような技能があったらなあとよく思うことがあります。
「鏡びらき」には、ご承知のようにお供えのお餅を刃物を使わずにくずします。11日と決まったのは徳川時代ということで、武運長久を祈る侍のしきたりだったようです。武家の儀式が、刃物を使うのを嫌うという点が何か興味深い所です。

 話は随分変わりますが、植物を使った物で私の気に入っているものをご紹介いたします。
 先ず、入浴剤の「美林の宿」。ヒノキオール・天然ヒバ精油・シソの葉エキス・カミツレ等の植物成分を使っていて、自然の殺菌力があるようで、アトピーとかの皮膚にも良いようです。1リットルで四千円と値段は少し高いのですが、私は気に入っています。
もう一つ、「三年陳年 紹興花彫酒」も私は好きです。四百円位で売っています。びんについている宣伝には「会稽山牌紹興酒は200年以上の歴史をもつ『国営紹興東風酒廠』の優れた技術者が原料に『鑑湖の水』と良質の糯米と麦麹を用い作った世界に誇る本格的老酒です」とあります。紹興酒は飲み慣れない方には少し癖を感じられるかもしれませんが、回りが速く、余り飲み過ぎなければ悪酔いもしません。寝る前の良質のブランデーにも匹敵するかと思います。紹興酒も最近は色々出回るようになりましたが、私は(値段から言っても)これが気に入っています。


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 │FORUM2-7 第70号 1月10日(金) │
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 4日から7日早朝にかけてスキーに行ってきました。組合の支部が主催したもので、場所は長野県木島平です。上の娘はアルバイトが始まり、下の娘は受験直前ということで、スキーに行きたければお父さん一人で行ってらっしゃいという話になり、組合の仲間と一緒ならば寂しくないだろうと思い、参加したのでした。結果的には役員の皆さんに終始大変気を配って貰って、楽しい旅行となりました。
 今年は雪不足で、行く前までは積雪が20センチということで、どうなることかと心配していました。しかし普段の心がけのせいか、行く前日に雪が降り始め、現地に到着した4日の午後も未だ降り続いていたのでした。
早速、板を付け、リフトに乗ります。以前は前日に、板にやすりをかけたりワックスを塗ったりして準備したものですが、今回は一年前のスキー場でしまったままの状態のものを現地で取り出して履いたので、最初は雪の上に赤い錆の線が付いてしまいました。10年前、SAJのバッヂテストの2級に受かった時に買った195センチの板で、なんだかとても足に重く感じられました。
 低く垂れ込めた重い雲からわき出るように舞い落ちる雪を受け、顔は凍り、身体は寒さに震えました。三が日を主に飲み食いで過ごし、なまった身体には厳しく感じられるのです。昨年から毎日飲んでいる血圧の薬を持ってくるのを忘れたことも、気分を萎えさせることでした。その日は足慣らしというつもりでしたが、それにしても納得の行かない滑り方だと思ったのです。
その夜は民宿の主人から地酒などを振る舞われて遅くまで盛り上がったようですが、私は血圧も心配ですし、翌日に疲れを残してはいけないと思い、夜の会を早々に引き上げ、寝床に入りました。
翌朝は本当に雲一つなく晴れ渡り、真っ青な空と真っ白に輝くゲレンデが私達を待っていました。肺に入る冷気も心地良く感じます。木島平には頂上近くに「日本最大」と唱われている斜度45度の急斜面がありますが、そこは滑降禁止になっていました。後は幾つかのゲレンデが横に広がっているだけで余り広いスキー場ではありません。隣に連結している「牧の入ゲレンデ」を含めても直ぐに全部廻れてしまいます。スキーの楽しみの一つに、違ったゲレンデを次々に征服していくということがあって、そういう点では志賀高原のように色々なゲレンデがたくさんある所は最高なんですが、木島平のような所は何度も滑り方の練習をするのに適しています。
積雪が余り深く無いせいか結構デコボコがあったりして、ジャンプとかウエーデルンの練習に向いていると思いました。そしてそれらが私の不得意な所でもあります。何回かやってみましたが、板がばたばたしたりして、余りうまく行きません。足が弱っているんだよなあ、もっと短くて軽い方がいいかもなあ等と思いながらも次第に足は慣れてきて、それに連れて気力の方も盛り上がって来ます。そのうち、少し後傾になっているのに気が付き、慌てて、もっとバリバリ攻めて行かねばと思い、格好に気を付けながら暫く直滑降っぽい大回りで勢いをつけました。しかし、きつい斜面のこぶの所でウエーデルンの練習をすると、又、うまく行きません。身体が回ってしまうのです。これは気力の問題でもあります。身体が絶対に回らないようにしっかり腕を前に伸ばして滑降をするように心がけます。そうです、これです、大事なことは。しかし、もっと斜度が急になれば又メタメタになるのでしょう。これは無理だなと思ったら、ゆっくりシュテムターンでもして降りるしかありません。どこまでが無理でどこまでが気力の無さなのか、その見極めが難しい所です。何度も来ているのなら別ですが、一年に一度や二度では矢張り無難無難という選択が良いのでしょうか? しかしそれでは絶対にこれ以上うまくなりません。一人で練習となるとどうしてもそんなことを色々考えてしまいます。
しかし、この組合のスキーに参加された方の殆どは家族連れで、小学生や学校に入る前の小さなお子さんと一緒でした。そういう方々はスキー道以前の段階で、橇とか雪遊びとかで楽しんでいます。私も、小さな娘達に一から教えていた頃のことを思い出します。それは遥か昔のことのようでもあり、つい最近のことのような気もします。しかしそれらはあっと言う間に通り過ぎていった出来事のように感じられるのでした。
木島平の直ぐ近くに馬曲温泉があります。日本の名湯百選に入っているそうで、山深い中に結構広い露天風呂のある気持ちのよい温泉です。二日目の夜、小雪のぱらつく中をみんなで入りに行きました。大勢なので陽気に入って来れましたが、こんな山の中の寒い雪の夜、一人で入ったら本当に凄まじき思いをすることでしょう。
最終日、帰る途中であの善光寺に立ち寄り、「びんずるまわし」を経験してきました。十六羅漢の一人「びんずる尊者」の木像が、夜の善光寺本堂の中を太鼓の音と共に数周し、それに触れると一年良いことがあるというのです。私も、寺からいただいた杓文字で「びんずる様」をぴしゃぴしゃ叩いてまいりました。御利益の程はどうでしょうか? 


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│ FORUM2-7 第71号 1月13日(月) │
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 日本で「脳内革命」が空前のベストセラーとなっているまさに同じ時、アメリカで52週間連続してベストセラー・リストにランキングされている本があります。それはダニエル・コールマン著による邦題名「EQ こころの知能指数」、原題は「EMOTIONAL INTELLIGENCE -Why it can matter more than IQ」という本です。
この本の主題は「私たちの中には二種類の脳、二種類の知性がある。考える知性と、感じる知性と。私たちが人生をうまく生きられるかどうかは、両方の知性のバランスで決まる」(p55)ということです。日米二つのベストセラーに共通していることは脳の仕組みについての新しい発見をベースにしていることです。その点で素人には、嘘なのか本当なのか判らないという心許なさが伴う訳ですが、この書によると、「この十年間は悪いニュースも多かったが、人間の感情面に関する科学的研究は飛躍的に進歩した。なかでも劇的なのは、脳の画像処理技術が発達して、現に活動している脳の状態を見れるようになったことだ。こうした技術の発達によって、長い間の謎が解明された。人類史上初めて、人間が考えたり感じたり想像したり夢見たりしているときに脳の複雑な神経細胞がどう機能しているかが目で見られるようになったのだ。神経生物学的データが一気に増えた」(p7)「情動にはそれぞれの役割があり、人体におよぼす影響もちがう。最近になってからだと脳の働きを調べる方法がいろいろ開発された結果、情動がどのような生理学的変化を喚起し、その結果からだがどう反応するか詳しくわかってきた」(p24)ということのようです。
五部立てになっているこの書の第一部は「情動の脳」と題して脳の仕組みについての神経学的データが述べられています。
「感情はすべて本質的に行動を起こそうとする衝動であり、進化の過程で私たちの脳に刻みつけられた反射的な行動指針」(p24)であって、「情動がすなおに行動につながらない変則的な表れ方をするのは、広い動物界のなかでも文明化されたヒトの大人だけ」(p24)なのです。それは脳の進化の歴史を背景に持つ脳の構造を見れば明らかになります。
脳の三層構造については「脳内革命」の春山氏の説明と殆ど同じで、脳幹→大脳辺縁系→大脳新皮質という風に発達した部分が上に重なって行きます。
それが爬虫類→哺乳類→人間という発達と関連している訳ですが、その神経回路の根っこの部分が情動をつかさどる部分なのです。具体的には、脳幹の上、大脳辺縁系の底辺にあたる所に左右ひとつずつあるアーモンドの形をした「扁桃核」がそれです。扁桃核は脳の各部と多岐にわたる神経回路でつながっており、そこには情動と結びついた記憶が貯蔵されていて、「情動の非常事態に際して、大脳新皮質を含む脳のほぼ全体を支配下におくことができる」(p39)のです。又それは「感覚器官から直接情報のインプットを受け、大脳新皮質が事態を完全に把握する前に反応を開始できる」(p41)のです。この直通ルートの情動反応は人間以外の動物に於いては主な感情→行動パターンです。
しかし人間の場合は、額のすぐ内側にある大脳皮質の前頭前野が情動反応をコントロールします。特に左側の前頭葉に、むき出しの情動を「オフ」にする働きがあるようです。こうして「心」を「頭」がコントロールすることが可能になるのですが、問題なのは情動に関わる記憶システである扁桃核が、知覚したパターンの記憶システムである「海馬」より先、生後まもない時期に完成してしまうということです。情動の神経回路は子供時代に形づくられていくにもかかわらず、それを本人は他任せにせざるを得ないということです。しかも、その情動は前頭前野にある「作業記憶メモリー」を働かせるにしても何か理性的判断を下す時にも極めて重大な影響力を与えるのです。頭を働かせる時、心の有り様が極めて大きく作用し、しかもその心の有り葉は知らぬ間に決定されているということです。しかし幸いなことに、「情動の脳が学習したことは――子供の頃に深く刻み込まれた心の習慣でさえ――修正できる。情動の学習は、死ぬまで可能」(p327)なのです。
こうしたことから、人生をよりよく生きる為に必要な能力として「感じる知性(Emotionai Intelligence)」=「こころの知能指数(EQ)」=「人格的知性」ということを重視することが大切だということになります。「情動を生産的な目標に向けて活用していく力こそ才能の総元締めということになる。衝動をコントロールし欲求の充足をがまんする能力も、自分の感情を思考の妨げではなく助けになるよう調整する能力も、目標から後退したときに自分を励まし耐えて挑戦しつづける能力も、自分自身を『フロー』状態へ導く方法をみつけて才能の向上をめざす能力も、すべて人間の努力を実りある方向へ導いていく情動のパワーを物語っている」(P153)と著者は主張します。
そしてその「EQ」を高めるにはどうしたら良いかを説いて行きます。 (つづく)


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│ FORUM2-7 第72号 1月14日(火) │
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 人格的知性(EQ)を、「EQ」の著者はイエール大学のサロヴェイ教授の分類法を借りて次のようなものだと説明します。(1)自分自身の情動を認識する能力(2)感情を制御する能力(3)自分を動機づける能力(4)他人の感情を認識する能力(5)人間関係をうまく処理する能力。そしてそれらが人生を聡明に生きるためにどれ程大事であるのかを説きます。ここに挙げられた内容自体については主にアメリカでこれまで山のように発行された人間関係論の本でもよく見られる事項ですし、日本の学校教育でもつとに重視されていたものではあります。それが神経生理学や心理学的方法によって論及されている点が興味をそそられる所です。
私がこの本を読んだ理由の一つに、以前紹介した「脳内革命」という本の信憑性を探る為に、大脳生理学の到達点という見地からしてこれら二つの本の共通点・相違点を見てみたいということがありました。
それに関連しては「医療とこころ」という章が最も相応しい箇所です。そこには次のような事が書かれていました。「(ロチェスター大学の心理学者)フェルトンらは電子顕微鏡を使って、自律神経系の神経終末が免疫細胞と直接接触するところにシナプス様の結合部分があるのを発見した。この結合部分で神経細胞から免疫細胞へ向かって神経伝達物質が放出されるのだ。…神経系は単に免疫系とつながっているだけでなく、免疫系が正しく機能するうえで欠かせない役割をはたしているのだ。」(P257)更に、「情動と免疫系をつなぐもう一つの経路」として「ストレス状態のときに分泌されるホルモン」を挙げます。カテコールアミン(アドレナリンとノルアドレナリン)、コルチゾールとプラクチン、天然のアヘン類似物質であるβ-エンドルフィンとエンケファリン等を免疫細胞に強いインパクトを与えるホルモンであるとして挙げます。「免疫機能を直接測定する実検によって、ストレスと不安が免疫力を低下させることは証明されている」(P265)という記述もありました。
そして驚いた事に、リラクセーションとヨガ、食事療法に中心的役割を与えているディーン・オーニッシュ博士らの治療法を革新的として紹介し、「患者の情緒的欲求に応える努力が医療のうえで有益だというデータも増え、脳内の情動を支配する部分と免疫系のつながりも明らかにされてきているのに、いまだにそうした証拠を『取るに足らない瑣末なこと』あるいは『売名をたくらむ一部の人間の宣伝にすぎない』として退け、患者の情緒など臨床的に注目する価値はないと考える医者が多い」(P281)と述べています。そして「最後に、患者の話に耳を傾け患者に充分な説明能力を持った医師や看護婦を育てる努力が医療の質的向上につながることを指摘したい。医師と患者の信頼関係は、それだけで治療成績に大きく寄与する。このことを認識し、信頼関係を重視する医療を育成する必要がある。そのためには、医学教育にEQの基本(とくに情動の自己認識と共感・傾聴の技術)を含めるべきだろう」(P280)と主張しています。
以前述べた事がありますが、私が外国で一番関心したことの一つが病院でした。先ず医者が本当によく相談に乗ってくれる。知識の無い患者に詳しく解説し、その上で患者からの質問に答える。そういうインフォームド・コンセント(事情が与えられた上での合意)を何よりも重視する姿勢が、日本の病院と際立った違いに感じられたのでした。その他、患者の便宜を最優先して考える様々なサービス精神も、これは一種の客商売なんだと実感させるようなものでした。料金も、保険を別にして日本の医療費よりも高いということはありません。そういう所ですらもっと患者のメンタルな部分に注意を払おうという動きが出ている訳です。
春山茂雄氏の「マホロバクラブ」のことはよく知りませんが、精神面のケアを重視した、食事や運動等での健康管理というやり方は医療を考える上で無視出来ないものだと私は思います。寧ろ私たちの日常的感覚に近い、民間療法的な視点なのではないでしょうか。厚生省を中心に進めて来た官僚的医療業務が完璧なものだったとは誰も思っていないと思います。例えば、心の問題を重視ということに関して私が思い出すのは、中曽根氏が首相だった頃、広島の原爆病院に慰問に行った時、彼が語った「病は気から」という言葉です。当時、被爆者援護法が争点になっていたことから極めて政治的な発言だったのかもしれません。しかしその無神経に私は開いた口が塞がらなかったものです。
なんでも気持ちの問題にしてしまってはいけません。必要な事はしっかりやっていかなければなりません。しかし、心を持ったトータルな人間に対する健康管理、このことを厚生省も含め、医療関係者は気を配らねばならないのではないでしょうか。また、私達一人一人がそういう知識も積極的に取り入れ、自分達の健康管理をしていく必要があると思います。 (つづく)

 
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│ FORUM2-7 第73号 1月16日(木) │
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 「EQ 心の知能指数」では当然ながら教育の問題にも多く触れています。著者は最初から、家庭が人間の最初に出会う情動学習の場であり、親が子供をどう扱うかが子供の人生の情緒的側面に深く永続的な影響をもたらすことを強調します。「子供の情動学習に大きな役割を果たすのは親だ。赤ん坊の情動に波長を合わせて応じてやる親や共感をもって子供を教え諭す親と、自分のことに夢中で子供の心の痛みに気づかない親や気分次第で怒鳴ったり殴ったりして子供をしつける親とでは、子供が習得する情動の習慣は天と地ほどかけはなれたものになる。心理療法の大部分は、言ってみれば、幼年期に歪められたり欠落したりした情動学習の補習のようなものだ。それならば、こんな遠回りをしないで、最初から子供達に大切な情動の知性を教えていくべきではないだろうか」(P347)ということです。では学校生活についてはどうなのでしょうか?
「EQの形成は学童期を通じてずっと続くが、EQの基礎を身に付ける機会は生後まもない時期から始まる。後年になって身につくEQは、生後まもない時期に身につけた基礎の上に積み重ねられていく。しかもEQは、あらゆる学習行為に欠くべからざる基盤だ。国立臨床幼児教育センターが発表した報告書は、学校の成績が伸びるかどうかは知識の蓄積や早熟な読解能力よりもむしろ情緒的・社会的能力による、と指摘している。自信や興味があること。自分にどのような行動が期待されているかを知り、衝動をコントロールできること。待てること、命令に従えること、教師に助けを求められること。自分の要求を表明しつつ他の子供と仲良くできること――こうした能力のほうが重要だ、と指摘しているのである。」(P294)
どうも学校が始まる以前の所でかなり大きい所が決まってしまっているようです。しかし「EQは教育できる」という言葉を信じて、「歪められたり欠落したりした」部分を「補習」していく必要があります。著者は「情動教育のポイント」として(1)情動の自己認識(2)情動をコントロールする能力(3)共感能力(4)対人関係の能力を挙げます。そしてワシントン大学のエツィオーニの言葉を借りて「学校は自制と共感をくりかえし教えることによって子供の人格形成を促し、市民としての倫理を真剣に受けとめる人間を育てる役割を果たしていかなければならない」(P385)と主張します
従来アメリカの学校よりも日本の学校の方が、もっと集団主義的にではありますが、生活指導・生徒指導という形でこうした教育はやってきていると思います。著者が前文で「思いやり、自制、協力、調和を重んずる価値観は、日本人の本質だ。ある意味では、『こころの知性』に注目しはじめた世界の変化は、世界の国々が日本社会の安定や落ち着きや成功を支えてきた中心的な要素に気づいた徴候とも言えるだろう」(P1)と書いているのはお世辞ではないでしょう。
しかし紹介された「セルフ・サイエンス」の授業例等の中には、オープンカウンセリングとして日本では理解されているものですが、参考になる所もありました。自制に関する「停止信号」ポスター掲示も興味深い取り組みです。それには、次の六つのステップが書かれているのです。(P370)
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│赤信号  1:ストップ! 心を静めて、行動する前に考えよう。│
│黄信号  2:何をどう感じるか、言葉で言ってみよう。 │
│ 3:前向きのゴールを設定しよう。 │
│ 4:解決策をいろいろ考えよう。 │
│ 5:結果も先に考えておこう。 │
│青信号  6:さあ、ベストプランを試してみよう。 │
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共感については次のよう述べています。「自己中心的な見方や衝動を克服する力は、社会的な利益をもたらしてくれる。他人に共感できるようになり、他人の話に心から傾聴し、他人の立場に立った見方ができるようになる。共感は親切、愛他主義、思いやりにつながっていく。他人の立場に立ってものを見ることができれば、偏った固定観念を打破して彼我の相違を寛容に受け入れられるようになる。今後ますます多元的になっていく社会の中でたがいに尊重しあい建設的な意思疎通をおこなうためには、こうした情動能力が一層重要になっていくだろう。EQは民主主義の基本技術だ」(P385)
私は著者のこの意見に全面的に賛成です。気持ちが大事だということになると日本ではそれが論理を超越した非合理に結びつけられるきらいがあります。しかしEQは固定観念に全てを丸め込む能力、会議の前の裏取引等で重要事項を決定していくような技術ではないと思います。今後ますます視野の広がって行く人類にとって重要さを増している民主主義の基本技術という風に理解しました。


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 │ FORUM2-7 第74号 1月17日(金) │
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 既にご存じのことゝ思いますが、大道中学校は来年度(平成9年4月以降)から服装は自由となります。標準服は今まで通り存在しますが、それを着て来ても着て来なくても構いません。従って来年度以降の新入生の標準服を購入するしないは親御さんの御意思で決めていただいて結構ということになりました。
この決定はご承知のように12月24日付けの学校長発行による「大道中だより」で最初に発表され、1月8日に改めて「大道中学校の標準服についてのお知らせ」で御通知し、そして14日の授業参観終了後、体育館で持たれた「大道中学校標準服の扱いについての説明会」で参加された父母の皆様方にご理解を得た所であります。
説明会は、質問が数名の方から出たきりで、きっかり1時間で終了いたしました。その中のお一人の質問はよく考えられた質問で、それに対して職員と服装検討委員の保護者側の役員の方がしっかりとした答えを出しておりましたが、今一度このフォーラムでもその質問について考えてみたいと思います。その質問とは、ア、これほど大事な決定をするのに決め方が急ではないのか? イ、簡単に欲しい物が手に入る現在、子供を満足させるばかりが良いとは限らない。もっとハングリーに我慢させるということが教育に必要なのではないか? ウ、生徒の非行を助長するのではないか? というものでした。
アについては、私は質問された方と全く逆の感想を持っております。学校での服装の自由を認めている中学校は、横浜市に中学が百数十ある中で、青葉台中と岩崎中、それに今回の本校と僅かに三校しかありません。全国的にも少数派です。そういう意味で確かに重大決定であるという風に言えます。しかし決め方は決して急ではありませんでした。服装自由を目指す検討を本校が本格的に開始したのは平成4年、私が赴任するよりも以前のことです。それから今日まで五年間かかっているのです。私は、こんな急にというよりも、なんでこんなに長い間かかるのかという風な思いがします。検討は長ければ良いというものではありません。服装自由化の意見と運動はずっと続いていながら、なかなかその実現がないという状態は、極めて有り得る状態ではありますが、決して良い状態であるとは言えないと思います。そもそも標準服とは標準服であって制服ではないのです。学校を選べない公立中学校に於いて、一つの服を強制することは憲法の精神から言っても本来かなり無理があるのです。しかしそれを変えることは出来ない。変える意思があったとしても、なかなか実現しない。このへんの所に実は考察すべき非常に重大な問題があるのだと私は思っています。ですから、長い時間がかかったが、よく実現したものだというのが私の気持ちです。
 イについては全くその通りだと思います。何でも自分の思い通りになると思っている子ほど始末に悪いものはありません。質問されたお母さんは「負担が大きくなる」とおっしゃっていましたが、それもその通りです。服装を自由にすれば本人もご家庭もあれこれ服装について考えねばならなくなり、大変なのです。しかしそれは本来、本人もご家庭もやらなければならないことなのではないでしょうか? それは商業主義に煽られて結局みんな同じ格好をしている傾向とは逆のことです。家計も勿論考慮に入れ、その子の学習に合った服を考えてください。なんて大変なことを!とお考えですか? しかし個性尊重が声高に叫ばれてる今日、その位は家庭でやる必要があるんじゃないでしょうか。昔は家庭の躾は良くできていたものだなぞという言葉もよく聞きますが、今回に関してはその逆です。初めて日本の中学校に於いて本来の家庭でやるべき事柄の一つを家庭が取り戻せるようになったとお考えになった方が当たっていると思います。私自身、もし中学・高校の時代に自分の着る物にもっと気を使っていたなら、もっとお洒落が身に付いただろうにとも思います。勿論、標準服が気に入っている方はそれで通して一向に構いません。とにかく、自分達自身でよくお考えください。しかしそれ程悩まれることではないと思います。小学校や大学、それに一部の高校と同じことです。
 ウについては、制服で非行を防げるとお考えですか?と訊ねましょう。今の若者の心を取り巻く状況はそんな簡単で甘いものではないと私は考えています。例えば、非行の入り口=服装の乱れということが言われます。その際、制服はなんとその必需品となっているのです。制服の細かい崩し方に順番というかやり方があるのです。非行を取り締まる筈のためにも強制している制服は、逆に非行を象徴するための絶対必要なアイテムにもなっているのです。教師も生徒もお互いそういう、服装で人を判断するようなやり方はやめにした方が良いと思います。心の乱れの問題は制服があろうが無かろうが、別次元の問題として存在しているのです。制服を着せるだけでそれが解決するでしょうか? 中学校だけに通用する特別な論理で取り締まったり甘やかしたりするのではなく、社会で通用している、人間としての道理にあった論理で問題行動にも対処していかなければならないと思います。


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│ FORUM2-7 第75号 1月18日(土) │
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 法規上「制服」は問題があるにもかかわらず、「標準服」という名の実質上の制服が何故どこの中学校にも存在するのか? 文部省をはじめとする極めて多数の教育論者が現在、個性化・自由化を説いているにもかかわらず、服装の自由化は何故なかなか実現しないのか? これは現在の日本の学校を巡る状況を考える際の重要な問題をはらんだ疑問だと思います。
その答えの第一は学校がこれまでどういう役割を果たしてきたかということに関係しています。元々日本の公教育は、明治以来の日本の近代化政策の上に位置付いて発足し遂行されてきました。それは欧米列強に伍して日本を富かで強い国にしようとする涙ぐましい努力の過程でもありました。戦前は天皇教とでも言うべき新宗教、戦後は経済成長というスローガンが大活躍しましたが、欧米に追いつくという国民の目標は一貫していたのです。そういう、国全体の動きの中で学校教育も、極めて有効に機能してきたのでした。民主主義の世の中になった戦後に於いても、子育てのかなりの部分を学校が受け持つという役割分担になっていました。それは共通の価値観が存在しているからこそ出来るわざでした。しかしここへ来て、国内に於いてさえ多様な価値観の存在することに気が付き、寧ろ人それぞれによって多様な生き方があることこそ尊重されねばならないという風になってきたのです。日本の公教育にとってそれは初めて体験する事態なのだと私は思っています。
答えの第二として更に重要な背景があります。これは今述べた日本の国策とも関係しているのでしょうが、同質性をこよなく愛するという日本人の特性とも言うべき問題です。これは生半可なことでは克服できない、もう生活スタイルや価値観の隅々にまで行き渡っている、日本人の感覚です。どうしてそういうことになったのか、たくさんの説があります。一番よく言われているのは、農耕民族の「ムラ意識」です。村の中ではみんなが同じ行動を取らないとやっていけないのです。例えば一軒だけ草むしりをしなければ、害虫はそこから全ての村へ飛んで行くのです。実りの時を目指して、みんなで窮乏と苦労を分かち合うことが大切なのです。そういうこと等から、「よそ者」に対する警戒心と敵意とともに、内部に対する均質性の強い要求が支配的となったというのです。戦後の民主主義の時代にもみんな同じであることを要求する心は変わりませんでした。学校に於いては、寧ろそれは意図的に強化され続けたと言っても良いかと思います。「実りの時を目指してみんなで協力」というスタイルは学校のスタイルとも極めて合致するということもあるでしょう。「自分だけ損したくない」「誰か一人が得するのは許さない」という「平等意識」は、「みんな同じでなくては気が済まない」という大衆心理へと発展していきます。それは、それに忠実に従うことによって、能力や個性を殺してしまう指導へと繋がっていく内容を孕んでさえいるものでした。所で、その「みんな同じに」という意識は学校で醸成されるだけでなく、日本国中至るところにあったのです。それはある場合には美徳として表れるでしょうが、又ある場合には抑圧的なやり方ともなります。「出る杭は打たれる」とか「もの言えば唇寒し」等の言葉もその辺の事情を指しています。そのことが日本の社会に於いて極めて重要なスタイルの一つであることを親たちもよく知っているが故に、子供の教育にもその辺の所を叩き込んで貰いたいと思う向きもありました。社会の荒波の洗礼としての鬼軍曹の制裁でも良いのです。中学校にその役割を引き受けて貰いたいという気持ちが現実に存在していたのです。
現在日本の中学校のかなりの部分はそのスタイルをなんとか保持しようと努力している所なのかもしれません。しかし幸か不幸か、そのやり方は最早通用しない所まで来ていると思います。現在の中学校に鬼軍曹は存在できません。もっと別のやり方を作っていかなければならない時にきているのです。日本人の感じ方や考え方もじわじわと変化してきています。「みんな同じでなくても良い」「違った個性の人間達がそれぞれの幸福を探すのだ」と言い出して来ているのです。「ムラの外でも通用する人間になりたいんだ」「どんどん出てやる。ものを言ってやる」ということかもしれません。この価値観の逆転に対して目くじらを立てることはないと思います。従来通りの価値観とスタイルに基づいて努力する者がいても勿論同様に結構です。
学校はそれらすべてを受け入れて、おのれのなすべきことをひたむきに行えば良いと考えます。教師と生徒との関係、大人と子供との関係、人間の教育活動として必要な関係は保持されなければ学校は成り立ちません。同時に子供同士の良い人間関係、子供たちと親や地域との関係、親と教師の共通理解、こういうことも極めて大切です。こうした様々な関係の中で、自分自身と同様に他者をも、成長と自己実現を目指す同僚として理解し、更には生き物や自然に対しても共感し慈しむ心が育ってくれることを目標とする必要があります。服装自由化がこうした一切の関係をしなやかに強くしていく為の契機となれば幸いです。親御さんと本人自身を含めた本当の意味での教育力の強化が求められる時なのです。




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